秦地名の由来

「はだ」という地名の由来

                「秦」という地名の由来

      和名類聚抄(わみようるいじゆうしょう)は、和名抄ともいわれ、平安時代につく
     られた辞書である。承平年間(931~938年)勤子内親王の求めにより、源順(みな
     もとのしたごう)が編集した。その二十巻本は、古代律令制度の行政区画である国、郡、
     郷の名称を網羅する書物としては、最も古い。この和名抄がそれぞれの地域の「郷名」
     までを記載している中に、「下道郡秦原郷」(しもつみちぐんはだはらごう)が記載さ
     れている。現在の総社市秦は、古くはこの「秦原郷」であった。秦には、飛鳥時代に
     建てられた秦原廃寺もあるが、秦氏の建てたものと推定されている。また、秦氏は機(ハ
     タ)織りの技術を持って渡来したことから、機は秦に通じるという説もある。 
      従って、秦という地名は平安、飛鳥時代の(律令制)にまでさかのぼることになる。
     しかも、秦氏との関係で地名も名付けられたというのが自然な解釈となる。
      さらに日本書紀の応神天皇二十二年条の「葉田葦守宮」(はたあしもりみや)の「葉田」
     も「秦」ではないかと言われている。(岡山県通史)。そしてそこに住んでいた「御友別」(み
     ともわけ)という大豪族は、秦氏であったと思われる。(吉備の古代史事典 薬師寺慎一)
      中国の隋書倭国伝という書物は、魏徴(ぎちよう)(580~643年)という著者が隋
     王朝の歴史を記載したものだが、その中に「秦王国」が日本に存在していたことが明
     らかになっている。現在、秦王国の所在は、明らかではないが、卑弥呼の存在と同じく、
     秦氏の栄えた九州説、吉備の国説、近畿説と出てくるだろう。一丁𡉕古墳群の30数基
     の発掘調査は、秦の地名の由来や「秦王国」の存在を立証する可能性もある。全国の
     古代史研究家や歴史ファンが、かたずを飲んで、総社市教育委員会の発掘調査を見守っ
     ている。
      秦という地名が「秦氏」に由来することになると、日本書紀にある「弓月の君」の
     子孫である秦の始皇帝(紀元前259~紀元前210年)まで関係あることになる。
      いずれにしても、「秦」という地名の由来は、そのルーツを研究すればするほど、ユー
     ラシア大陸を包む人類の大ロマンとなる可能性がある。(板野忠司)

       ※ 秦原郷は、現在の秦、神在(上原・富原・下原・八代)及び常盤の中原を表す。